Dec 24, 2010
独創性溢れる注文家具
今ではおしゃれな家具がたくさん売られています。しかし、より個性的な自分だけの家具が欲しいことはありませんか。注文家具なら自分の希望に応じてことを職人のものが作ってくれます。独創性溢れる注文の家具は、きっとみんなの注目を引く一品になると思います。どこにもない自分だけの家具に私も大きな憧れを持っています。現在住んでいる実家はもう30年以上の築年数が経っています。そのために、エコハウスにしていきたいと願っています。エコハウスにすると、様々な節約を行うことができます。エコ活動は買い物袋をもらわないし、また、リサイクルをしたりして実践しています。実際の住宅にもエコ活動をしていきたいと思っています。
1960年代後半から70年代前半にかけて、若者たちが作った音楽が時代を席巻した。はじまりは「反権威」を旗印に掲げたフォークであった。そのなかに「神様」とまで呼ばれ、圧倒的な人気を誇った男がいた。(文・福嶋敏雄)
水辺の泥土に4羽のカモが、おたおたと歩いていた。グワァーグワァーと、鳴き声がうるさい。前日に雨が降ったためか、湖は茶褐色に濁っていた。
「W」の字形の湖の四方は、濃いミドリの山々に囲まれていた。杉にまじって、モミジの木々がしげっていた。
モミジは漢字で「椛」とも書く。保険代理店湖は「椛(はな)の湖」と呼ばれる。南側の岸辺は、オートキャンプ場になっていた。段差のついた丘が、棚田のように折りかさなるように築かれていた。数組の家族連れがテントを張っていた。
湖の左手付近に、まるく、小さな島が浮かんでいた。41年まえ、あんな島があったのか、思いだすこともできない。
「中津川に行かへんか」
仲間に誘われたが、いったんは断った。メーンは、すでに「フォークの神様」と呼ばれていた岡林信康だった。岡林のライブは、なんどか聴いていた。
「山谷ブルース」や「くそくらえ節」や「それで自由になったのかい」は好きな歌だったが、ある反戦団体の持ち歌になっていた「友よ」だけは「ナンセンス!」だった。
ライブでは聴いたことがない浅川マキも出ると聞き、「ほな、行こか」とバリケード封鎖が解除され、夏休み中の倦(う)みきった雰囲気のキャンパスを脱け出した。
正式名は全日本フォークジャンボリー、一般には「中津川フォークジャンボリー」と呼ばれた。1970年8月8日の昼から24時間にわたって行われたのは、第2回であった。約8千人もの若者が詰めかけた。
岡林や浅川のほか、「五つの赤い風船」や加川良、はしだのりひこ、それに先年、亡くなった高田渡ぐらいまでは覚えている。
すさまじい雑踏と暑さであった。もちろん席などはないから、地べたにすわって聴いた。撮影のクルーも来ていた。
「女子アナ」が、汗を流しながら、マイクを突きつけていた。がん保険すでにフォークも、商業主義のベースに乗りはじめていた。
岡林は何曲か歌ったが、はじめて聴いた「私たちの望むものは」だけが記憶に残った。ロック調の歌だったからだ。
だがいちばん感激したのは、SL「D51(デゴイチ)」に乗れたことだ。黒煙をあげて疾駆する「D51」は、木曽路の山々によく似合っていた。
◇
この稿を書くキッカケとなったのは、梅田の大型書籍店で偶然、2冊の新刊本を見つけたからである。岡林のインタビュー集『岡林、信康を語る』と、北山修の『最後の授業』だ。ふたりとも、すでに65歳になっていた。
北山は「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散後、音楽活動をやめはしなかったが、本業は精神分析学者であった。九州大学教授として、昨年3月、「最後の授業」を行って定年退官した。
岡林は「フォークの神様」という呼称の重さに耐え切れず、岐阜や京都の山里に一時期、隠棲した。その理由について、「“フォークの神様”を期待してるやつらの前で歌うのは勘弁してよって」と語り、一種の被害妄想にかかっていたと話している。
隠棲したのは翌71年の、さながら政治集会のようになって、パンクしてしまった第3回ジャンボリーに出演したあとである。最後のアルバムは「俺らいちぬけた」。
フォーク歌手、なぎら健壱は『日本フォーク私的大全』のなかで「日本のフォーク・ブームは岡林信康に始まり、岡林信康とともに終わったのではないだろうか」と書いた。
フォークは以降、商業化にむかった。翌72年には吉田拓郎が「結婚しようよ」を大ヒットさせ、井上陽水の「傘がない」、ガロの「学生街の喫茶店」がブームを広げた。すでにフォークは、レコード会社に莫大(ばくだい)な利益をもたらす「新歌謡曲(ニューミュージック)」になっていた。
◇
うねうねとした山道をくだった。生命保険途中には、坂下神社という古社があった。木曽義仲が出陣のさい、この神社で武運長久を祈願したと伝えられている。
現在は中津川市になっているが、当時は恵那郡坂下町という農村であった。岡林が最初に隠棲した村でもある。
その後、演歌に魅せられ、美空ひばりの曲を作り、「エンヤトット」という日本独自のロック作りをはじめた、という話は耳に入っていた。だがその曲を聴くこともなかった。
日比谷野外音楽堂で、36年ぶりに開いた「狂い咲き2007」コンサートのビデオを、知人に借りた。髪も白くなり、すっかりおじさんになっていたが、じつに生き生きとした表情で「エンヤトット」を歌っていた。
『最後の授業』の一節に、こんなくだりがある。「かつて私は歌を作りました。友だちのためとか、テレビのために作ったのではないのに、そこで歌が紹介されると、途端に私の歌でなくなった、あの淋しさを覚えています」
コンサートでの岡林には、その「淋しさ」もなかった。サービスのためだろうが、ちょっと編曲した「山谷ブルース」も歌った。すでに「神様」の面影は、みじんもなかった。
−−時間待ちのため、中津川駅周辺をぶらぶら散策した。線路近くの小さな公園に入ったとき、目をむいた。「D51」が展示されていたのである。
黒光りした、重量感たっぷりの「D51」は、いまにも動きだしそうな迫力であった。71年4月に引退したとある。
「日本のフォーク」が終わった年でもあった。生命保険
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